今回は私の現在まで生きてきた道のりをもう少し詳しくお伝えしたいと思います。
細かい事はたくさん、たくさん、あるのですが、これでも随分削っています。
私は幼少の頃から、その時々のちょっとした先の未来がわかってしまったり、例えば「この時は〜こうなる」と先が読めてしまったりなど、そして誰かと会話している時も、相手が言葉にしてしゃべっていなくても相手がホントに普段通りしゃべっているかのように、他人の思考が見えてしまい、相手の考えている心の声がどんどん聞こえてきたりしたので、聞きたくない事もたくさんありました。
なので、それによって傷ついたり悩むこともありました。
でもだんだん大人になるにつれて相手のことを理解できるようになるので、ある意味では良かった。と思えるようになったんです。
そして、私は物心ついた頃から、空を見るのが好きで、蝶や花、木々などに触れたり、風を感じてコンタクトするのが好きでした。木々の緑やお花の香りを感じたり、鳥の声や川の水が流れている自然の音などに癒されるのです。
何よりも気持ちがリセットされるんです。
私が幼少の時に覚えていることというのは、私には兄と弟がいました。
兄も弟も甘えん坊で、わがままで、気に入らないことがあると、よくかんしゃくを起こして、地面に転がって泣きわめいていました。私は彼らをなだめて引っ張り起こして学校などに行かせるのは、私にとって大変なことでした。
私は三人兄弟の真ん中なので、あまり、両親に手をかけられず・・・というか、幼少の時から何でも自分でできて、兄と弟のお世話をしていたそうです。
私も子供ながらにそんな兄弟を見ていると学校にも遅刻しちゃうし、手をかけて何でもしてあげたくなっちゃうんです。でも地面に転がるのは私も小さいながらに「勘弁してヨ〜」と思ったりして、私は誰からも「しっかりしてるね〜」とよく言われちょっと大人びた子供のようでした。
朝起きてからの生活といいますと、母は特に家事など食事の支度など忙しそうにして私たち、子供たちの(特に、兄と弟)幼稚園や小学校の準備や着替えなど大変そうでした。
その頃、私は幼稚園に通っていたのですが母の姿を見ていて「ホントに大変そうだなぁ〜」と思っていました。
私もできることはやりましたが、でも、私も幼稚園生なので「いっしょに着替えさせて〜」と甘えて、泣いていると私の大好きな、やさしい不器用な父が私の着替えを手伝ってくれました。
私はこの時、父にしてもらった嬉しさと、母にかまってもらえない淋しさを思い出し涙がでてしまいました。そして私のインナーチャイルドを癒すことができたのです。私のインナーチャイルドに「私が母に嫌われてたんではなくて、母があまりに忙し過ぎて、かまってもらえなかっただけでお母さんは、やってあげたいと思ってたんだヨ。」と。父はとてもやさしくて、大好きだけど、その時の私は、やはり子供としてはお母さんに、甘えたり、かまって欲しかった。という思いがあり、根本の部分では、私は両親にとても愛されていたという事を私のインナーチャイルドに伝え、ハグして、愛と光で満たし癒してあげる事ができました。母のその感情も小さかった私はわかっていたけど、実際に抱っこしてもらったり、触れて欲しかったという奥の感情が出てきました。このインナーチャイルドの癒しは随分前にもやっていたのですが、又、その時の感情を思い出し、涙が出てしまいました。
朝は毎日こんな調子で時が過ぎ、ある朝、その日はたまたま近所の人がゆっくりと私をバイクで幼稚園につれて行ってくれることになりました。うしろに乗って、つかまってたんだけど、イヤな予感がしていました。

気がつくと私は病院のベットに横になっていて、ベットの両サイドに父と母がいました。私はケガをしていて、頭や手など包帯でぐるぐる巻きで危篤状態でした。魂がぬけ出て体外離脱している私は痛みはなく、とても心地よく幸福感がありました。その後日数がたち、両親が私を抱っこしたり、私は、上から両親の会話を
聞いていました。私の浮遊しているこの意識不明の状態が3週間ほど続いたそうです。お医者さんには「このまま戻らないかもしれません」と言われていたそうです。
子供ながらに死ぬということは「こういうことなんだ」と自分で経験してわかりました。
私にとっては、この3週間の間、両親の愛情が感じられ安心したのでした。
その後、年数がたっても体外離脱を繰り返しました。
私の体外離脱は、とても心地良く、三次元では感じることができない幸福感がありました。独身の時は、波動が低かったせいか不成仏霊をしょっ中見ていました。
結婚してからは、なかなか子供に恵まれませんでしたので、私は自分の波動を高め高次元の存在に子供を授けてください。とお祈りをしていました。お願いしていたところ、妊娠し、待望の娘が生まれとても幸せでした。
子供をもつ喜びや幸せを感じることができました。
でも娘の出産の時は、陣痛が52時間でその後帝王切開になりました。出産までの時間が長くなり、帝王切開で生まれた時には危ない状態でNICUの新生児集中治療室にしばらく入っていました。でも状態が良くなってからはすくすくと健康に育つことができました。
この時、お世話になった佐藤先生にとても感謝しています。佐藤先生はとても優しく良くしてくださって、ほんとうに感謝しています。
娘を無事に生かして下さって。
その後二人目もなかなかできなかったので、私が又、高次元存在に「もう一人、子供が欲しいんです」と。上で待機しているのはわかっていましたけど。
「男の子を授けて下さい」と、祈りました。高次の返事は私に、初め映像で見せてくれました。それは、点滴台5台に体中、点滴だらけの赤ちゃん。他に機会がベット回りにあり、大変な状態を見せてくれました。そして又、高次の方から「これでもいいんですか?子供は授けるけど、それでもあなたは、大丈夫ですか? 育てられますか?」というメッセージが降りてきましたけど、私はそんなはずはない、と思い、自分に「絶対、大丈夫」と言いきかせました。すぐに妊娠することができました。息子は生後3ヶ月程したら、下痢がひどくなったので近所の個人病院に何件か連れて行きました。
先生たちは、みなさんおっしゃいます。
「何でもないです。赤ちゃんの便は軟らかいですヨ」と。
でも、親の私は「何かが違う」という思いにかられました。
もう、夜です。でも「大きな病院に絶対、行くんだ。」と、思い、行きました。遅い時間だったけど、以前娘を看て下さったあの佐藤先生がいました。「良かった!!」夜遅いうえに検査もして下さり、結果は「急性骨髄性白血病」と病名を告げられ、この病院では治療ができないからと更に大きな聖路加国際大学病院に今すぐに行かないと「もう命が危ない!!」と言われすぐに救急車で行きました。佐藤先生も一緒に救急車に乗ってくださり、ずっと私をなぐさめて下さったり、気持ちを安心させようとしてくれていました。
その後、仕事の途中の主人が娘を連れてきて病院で合流しました。高次のメッセージ通りになりました。
聖路加で1才のBirthdayの日まで、全ての治療をしてくださりました。
ある時私と娘が病室から、ちょっと休憩しようと思い廊下に出たら、娘が私に言うんです「ママ〜、今ね拓君(息子)がゆうちゃんにバイバイって笑って、言ってたよ〜。ありがとう。ありがとう。って何度も言ってたヨ」と。
「あっ」と私は思い、体中に鳥肌が立ちました。
もう、そろそろだな。とわかっていたけど、いざその時になると、動揺してしまい正常に戻るまで時間がかかりました。
と、すぐに、NSさんが、私たちの方へ走ってきて「すぐ病室に戻ってください」と、いらしたのです。その時、私は、「あ〜良かった」と自然に思えました。
「やっと楽になれたね」と声をかけました。「こんなに苦しい思いをさせちゃってゴメンネ」
「良かった!!」とホントに子供のことを思う親の真実の言葉です。
娘もスピリチュアルに精通していたので幼少時は高次と繋がり映像や言葉で見ることができていました。
こちらの病院の先生やNSさん、ボランティアの方々には、もう、皆さん、素晴らしい方々で、ホントに良くして下さり天使のようでした。先生やNSさんがお休みの時にお出掛けになって、色々と息子の好みのおもちゃなど買ってきて下さったり、ある時は先生がディズニーランドに行かれて、大っきなミッキーさんのぬいぐるみを買ってきて下さったり、息子は足をバタバタして、すごく喜んでいました。
本当に「愛」が伝わってきました。私たち家族も勿論、病院で働いている方々、皆んなで、寄り添って、魂の成長がありました。でも、この後、又私たち家族の魂の学びが始まるのです。